2012年12月11日

バレエ末席物語〜「アンナ・カレーニナ」ロパートキナ&バラーノフ&エルマコフ〜

「アンナ・カレーニナ」
2012年11月23日

アンナ・カレーニナ・・・ウリヤーナ・ロパートキナ
アレクセイ・カレーニン・・・ヴィクトル・バラーノフ
アレクセイ・ヴロンスキー・・・アンドレイ・エルマコフ
ほか マリインスキー・バレエ団

色々考えすぎてアップが非常に遅くなったけれど、今年のバレエ納めは、ロパートキナの「アンナ・カレーニナ」でした。前日のヴィシニョーワとどちらにするか迷いに迷って、年齢的にヴィシニョーワはまた観られるチャンスがあるかもしれないと思い、ロパートキナを選びました。連日はさすがにキツイので。
ということで、今回のマリインスキー公演は、ロパートキナ祭り(^_^;)古典ではないドラマティック系をどう踊るのかも見てみたかったし。

「アンナ・カレーニナ」は、今年のエイフマン版に次いで2度目。ラトマンスキー版はどういう感じか比べてみるのも面白い。両方見て感じたのは、エイフマン版はアンナとカレーニン、ヴロンスキーの3人の心理描写に絞っているという感じで、ラトマンスキー版はもっと原作に近い感じ。
「アンナ・カレーニナ」を最初にバレエ化したのは、マイヤ・プリセツカヤ。プリセツカヤ版の映像で予習しておきたかったけれど、たぶんラトマンスキー版はプロコフスキー版の改訂版なのかな。
個人的に、音楽はシチェドリン(ラトマンスキー版)よりチャイコ(エイフマン版)のほうが聴きやすかった。ま、当たり前といえば当たり前だけど。
ラトマンスキー版は、上記以外にもアンナの兄やヴロンスキーの母、キティの両親などごちゃごちゃ(?)登場人物が出てきます。原作通りなのでしょうが、だれがだれやら、一回観ただけではよくわからない(^_^;)さすがにキティとリョーヴィンはわかったけれど。
キティ役のスヴェトラーナ・イワーノワ、なかなか役に合っていたと思います。役柄がちょっと「オネーギン」のオリガを連想(^_^;)男性ダンサーにサポートされて左右にピルエットするハニカミポーズがオネーギンの振付に似ている。
若く愛らしい娘キティはヴロンスキーに恋しますが、ヴロンスキーは若い娘より熟女好み(^_^;)人妻アンナに一目ぼれ。そこから運命の歯車は破滅へ向かうのです。
舞踏会でアンナと踊るヴロンスキーを見て、キティは大失恋。
原作では、結局キティに熱をあげていたリョービンと結ばれますが、バレエでは「キティその後」は描かれていません。
一昨日、髑髏メイクのロットバルトだったエルマコフがイケメン青年に変身。(←変身ぢゃなくて素顔(^_^;)
エルマコフ/ヴロンスキーは激しくアンナに恋心をぶつけます。
最初は怪訝そうに戸惑うロパートキナ/アンナ。ヴロンスキーの若い情熱にも懐疑的。
愛する息子セリョージャを抱き寄せ可愛がり、夫カレーニンに優しい愛情を求める。
ロパートキナ/アンナは、夫の愛情を求めていました。しかし、夫は仕事に忙しいと書斎に引きこもり妻を退ける。バラーノフ/カレーニンは終始感情をほとんど表さない。
カレーニンにとって、美しい妻はブランド・バッグのようなもの。社交の場で、脇に寄り添っていればいいだけのお飾り。あとは、家を切り盛りし息子を育て、貞節で従順な妻であればいい。妻の人間性も、女性としての幸せも、夫にとっては思考の外。
そんな人間性を踏みにじられ、女性としての悦びもない中で、夫との関係ではすでに冷めきってしまった情熱を激しくぶつけてくるイケメン青年がいたら、気持ちが動くのもわからないではない。

エルマコフ/ヴロンスキーはとても情熱的で半ば強引、というか、自分でも抑えきれない若さゆえの激しさでもってアンナに迫る。
夫に拒絶されたアンナは、半ば引きずられるようにヴロンスキーへ向かう。
自分を生身の女として愛してくれるイケメン青年が現れたら、それを拒み続けるのは難しい。
気づけば、自分でもどうすることもできないほど、ヴロンスキーを愛してしまう。これは運命。運命の歯車としか言いようがない。
妻として母としての立場と女としての気持ちの板挟みで床に伏してしまうアンナ。
朦朧とした夢の中で、アンナ、カレーニン、ヴロンスキーのパ・ド・ドゥが踊られる。
アンナの揺れ動く気持ちが表されている。
目が覚めるとカレーニンが見舞いに来ている。
カレーニンの手を取り、近寄ろうとするヴロンスキーを手で制し、一旦は、ヴロンスキーを拒否し夫との生活を選ぶ。
だが、アンナに拒絶されたヴロンスキーは銃で自殺を図る。
それを知ったアンナは、ヴロンスキーへの気持ちをもはや抑えることができない。
命がけで自分を愛する男を自分も命がけで愛そうと決意する。
家庭を捨て、ヴロンスキーのもとへ走るアンナ。
ロシアを脱し、イタリアで愛を確かめる二人。
しかし、そんな二人を待っていたのは社交界の冷たい眼。
背徳の烙印。
愛する息子とも引き離され、行き場のないアンナ。
ヴロンスキーとの関係もきしみ始める。

バレエでは、ヴロンスキーと喧嘩になり絶望したアンナが列車に身を投じることになっているけれど、原作ではヴロンスキーの愛情がもはやアンナから離れ他の女性に移ったのではないかという猜疑心と嫉妬心から絶望したアンナが自殺することになっている。
ただの喧嘩というより、そのほうが、全てを失った絶望感が伝わる気がするので、そこらへんをもっと振付に表現したら、アンナの自殺にもっと説得力がでるかもしれない。

衣裳も、エイフマン版では、アンナは前半赤い衣装で後半黒い衣装だったと思うけれど、ラトマンスキー版は、初めは黒い衣装でラストが赤い衣装。
どういう解釈だろうと自分なりに考えてみた。
エイフマン版はアンナの恋心を情熱の赤で表し、ラストは死を思わせる黒で表したのか。
ラトマンスキー版は、貞節な妻であったアンナに首まで隠れる黒いドレスを、そして、奔放な恋に身をまかせたアンナに胸の大きく開いた赤いドレスを着せたのか。とか、勝手な想像をしてみる。
ちなみに、このラストの赤いドレスのとき、JAニュースの写真では、赤いチョーカーをつけているのですが、舞台ではチョーカーはつけていませんでした。
DSCN6218 (480x640).jpg←コレ
忘れた?それとも、変更したのかな?

ロパートキナは軽々と踊っていたけれど、はほぼ出ずっぱりで相当体力がいる振付。ヴロンスキーもリフト多用で要体力。ダンサー泣かせな振付です。

「アンナ・カレーニナ」を「欲求不満の人妻の不倫物語」と言ってしまえばそれまでだけど、なかなかに色々考えさせられる。
この不倫物語は誰が悪いのか?
誰の悲劇なのか?
3人は3人とも、自分勝手ではある。
妻の人間性を無視し、自分の従属物のように扱うカレーニン。
夫や息子がいる立場でありながら、妻や母として生きるより、女としての悦びに身を投じるアンナ。
相手の立場も考えず、ただ自分の迸る情熱をぶつけるヴロンスキー。
その身勝手な大人たちの最大の犠牲者は、息子セリョージャ。
愛する母が何故自分を置いて出て行ってしまったのか。その理由に傷つき、愛するが故に憎むことになるかもしれない。満たされなかった母への想いは、やがて大人になったとき、母のような女性・年上の女性に向けられるかもしれない。たとえ、それが人妻であっても・・・。
そんな悲劇の連鎖を想像してしまったり。

ただ、自分もそれなりに人生の経験を積んでくるとそれぞれの気持ちや立場もわからないでもない。
というか、わかりすぎて辛い?(^_^;)
相手の家庭も、世間的立場も顧みず(顧みることができず)、迸る情熱のままに気持ちをぶつけるヴロンスキーの若さ。
ただのお飾りではなく人間らしく生きたいと切望するアンナの気持ち。
社交界に妻の不貞が知られ、それを許せば自分のプライドが傷つくカレーニン。家を飛び出し愛人のもとに走った妻を許すことなどできはしない。自分だけではなく、息子セリョージャを守るためにも、そんな母親を受け入れることはできない。夫として父としてアンナを許せないカレーニンの気持ち。
そのどれも本当だと思う。
個人的な意見を言ってしまえば、男性のほうが女性より嫉妬心が強いのではないかと思う。
というのも、男性のほうが独占欲・所有欲が強いと思うから。男としてのプライドゆえ、嫉妬心を表だって表さない人もいるけれど。
男性が浮気しても許されることは多いけれど、女性が浮気した場合、許せる男性は少ないのではないかと思う。
そういうことが、夫の浮気は許されるが、妻の不貞は決して許されない道徳観、倫理観を生み出したのではないか。

ロパートキナのアンナは、背徳の愛に走る奔放な女性というイメージではなく、本来は夫を愛する貞節な妻だけれど、夫の愛情を求めながらもそれが得られず、自分を生身の女性として愛してくれる青年の命がけの恋に心動かされる女性、結局はアンナを幸せにすることはない二人の男に翻弄された女性の悲劇となっていたように思う。そういう意味では、プリセツカヤの演じるアンナ像とは違うかも?
自分で選択するというより、運命に翻弄される女性の悲劇。
その意味において、これはアンナ・カレーニナという一人の女性の悲劇ではない。
その時代の幾多の女の悲劇なのだと思う。
夫の浮気は許されるが、妻の不貞は決して許されない社会。
女性の自立も、女性からの離婚も許されない社会。
ロパートキナの演じたアンナは、そういう社会の歯車に引き裂かれた女の悲劇だったのではないか。
「アンナ・カレーニナ」は、単なる「一人の人妻の不倫物語」ではなく、そういった社会観、倫理観といったより複雑な問題を内包していると思う。
今回のマリインスキー公演ではイマイチ人気がない演目のようであったけれど、個人的には、こういう様々な問題を考えさせられる、かつまた演じる者の解釈が表れるドラマティック・バレエは非常に興味をそそられる。
並みのダンサーでは演じきれない役どころだと思うし、まだまだ考えさせられる問題点、様々な解釈がでてくると思う。また上演される機会があったらまた観たい作品。

ボリショイに始まってマリインスキーで終わった今年のバレエ鑑賞。見に行った公演数は少ないけれど、途中にはバレエ・フェスもあり、なかなか充実したバレエ・イヤーでした。
余談ですが、このクリスマスも、十市さんによるレッスンがあり、十市さんを囲むクリスマス・パーティーという夢の企画がありますが、パーティー代金が去年の倍になっているので諦め、その分で十市さん公演を来年のバレエ初めにすることにしました。
はぁ〜、ようやくバレエ・ブログを書き終えた〜。

posted by ひつじ at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | バレエ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/390984628
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック