2012年09月28日

言葉の箱

タイトルは、辻 邦生さんの本のパクリ。(←いつもパクリばっか(^_^;)
昔参加した、とある講座で、「自分のお気に入りの本を三冊持ってきなさい」と言われ、持っていったのが、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』、エミリー・ディキンスンの詩集、そして、辻 邦生さんの『言葉の箱』。これが、私の三種の神器。
『言葉の箱』に書かれている辻さんの文にいたく共感し、共感した文章に赤ボールペンで線を引いていったら、真っ赤になってしまいました(^_^;)以来、私のバイブルともいえる一冊。

今回は本についてではなく、私にとっての「言葉」について。
私のなかで、言葉は二種類の言葉がある。
「閉じられた言葉」と「開かれた言葉」。
これを読んで「なんだ、それ?」と思われるかもしれない。
わかりやすく言えば、「読み手の理解を必要としない言葉」と「読み手の理解を必要とする言葉」ということ。
もともとブログを始めたきっかけは、友人から薦められたことと美術展やバレエの忘備録にしようと思ったから。そこまでなら、ただの日記でいいわけで、ブログに公開する理由はない。もう一つの理由が、自分なりの「開かれた言葉」がどう受け止められるかを見てみたいというものだった。
にもかかわらず、沢山の人が読みに来る人気ブログを書く気は毛頭なかった。(←書く気があっても無理だけど(^_^;)
いかにして人の興味をそそるか、いかにしてアクセス数を増やすか、「ブログを始めるにあたって」のような本などには、そういうことが書いてある。
そういうことは、私にとって意味をなさない。
「開かれた言葉」といいながら、かなり突き放したものいいの文だという自覚はある。
それは、万人受けするものを書こうという気がないから。
もし、一人でも二人でも、私の書いたものからなにがしかを感じて「また読んでみようか」と思ってくれたら、それが私のブログを書く意味なのだと思う。
沢山の人が読みに来るブログではなく、ごく少数の興味を持った人が継続的に読みにきてくれるブログ。それが、私の書きたいブログなのだと思う。
今回、長くブログを休業し、今もなかなかアップする時間がない。
にもかかわらず、継続的に読みに来てくださる読者がまだいるということは有難いし、嬉しい。
100人のアクセスより1人の継続的読者。そのほうが私にとってはずっと価値がある。

言葉は誰一人として同じ文章は書けない。
似たような文はあっても、全く同じ文章を書くことはできない。
一人ひとり皆違う。
その中で、私の言葉に興味を持ってくれる人がいたら嬉しい。
ミヒャエル・エンデは言った。
「ヨーロッパの文学は全て、アルファベット26文字の組み合わせでできている」
私にとって、目から鱗の言葉だった。
確かに、アルファベットは26文字で、欧米の人々はその組み合わせで文章を作っている。
たった26文字の組み合わせで、どれほどの作品が生まれただろう。
シェイクスピアもゲーテもダンテも、基本26文字を使って物語を創造した。
そのどれ一つとして全く同じ文はない。
これからも同じ作品は出てこないだろう。
それは、アルファベット26文字に無限の可能性が秘められているということを意味する。
日本語に置き換えれば、日本の文学は全て、仮名50音の組み合わせてできているということだ。
万葉集も今昔物語も、『吾輩は猫である』も、それこそ『1Q84』もだ。
驚くべき可能性だと思う。
この限られた文字の中から、どんな世界を創造していくか。
自分の言葉の箱の中から、どんな文を生み出していくのか。
それは書き手に委ねられている。
だからこそ、言葉に対して無責任になりたくないと思う。

 昔受けた編入試験の小論文の課題が「あなたにとって言葉とはなんですか」というものだった。
そのときは、なんと抽象的な問題だろうと思ったけれど、後々、私にとってその問いが、単なる編入試験の問いではなく、自分の人生に課せられた問いなのではないかと思うようになった。
自分にとって言葉とはなにか。
一生をかけてその答えを探していきたい。





posted by ひつじ at 01:22| Comment(6) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月12日

平静と憔悴のあいだ

タイトルはフィレンツェを舞台にした某小説(映画)のパクリ(^_^;)
身内が入院し、なにかと慌ただしいこの頃。
やらなければならないことが山積。
色々考えさせられる。
生きていれば苦しいこともある。
多かれ少なかれ。誰にでも。
でも、私は辛さがあまり顔にでないらしく、とても辛い時期に「元気そう」とか「幸せそう」とか言われることがある。
そういう言葉を相手に平気で言える人ほど「お幸せ」な人だと思う。
昔入院したときも、入院するまで、職場の人は私が具合が悪いことにほとんど気づかなかった。
病状の悪さに医長が慌てて飛んできて即入院となったときも、職場に連絡すると「そんなに具合が
悪かったなんてわからなかった」と言われた。
具合が悪くても具合が悪く見えないというのは本人には辛い。
まぁ、具合の悪さを表に出さない、出せない自分にも問題はあるけれど。
具合の悪さを表に出せる人は、周りが心配し気にしてくれる。
気遣って早く帰るよう言ってくれる。
私の場合、顔色すら変わらない。
仕事場では気を張っているから仕事も普通にこなせてしまう。
家に帰って倒れこむような状態でも。
なんでこんなタチなんだろうとも思う。
もうあまりにも長いこと、そう、子供の頃から、平気な顔をして生きてきてしまったから
どうしたら「辛い」「苦しい」ということを表に出せるのかわからなくなってしまった。
まぁ、それが私のタチなんだろうなと思う。
それに、本当に倒れるほど辛ければきっと顔にも出るだろう。
まだ大丈夫ということだ。
ブログでも、楽しげな話題しか書かないようにしてきた。
でも、こんな独り言も書いていくかもしれない。








posted by ひつじ at 00:13| Comment(2) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする